事故を減らした先に、何が残るのか?高齢ドライバーの実車試験の有識者検討会の先にある社会の姿。

昭和38年生まれの私が子供だった頃、交通事故は日常的に起きる当たり前の出来事だったと記憶しています。もちろん年中自動車にはねられるという事はありませんが、子供なら誰でも一度は経験する、そういう時代だったと思います。

例えば、私も、三歳年下の弟も、自動車にはねられた経験があります。大した怪我ではありませんでしたが、私も弟も自転車に乗っている時に事故にあったのです。

事故統計を見てみると、昭和45年の人身事故件数は718,080件。死者数は16,765人で、日本における死者は最も高い年だったのです。

それが今はどうでしょうか?

2025年の人身事故件数は287,023件。死者数は2,547人でした。

 

なぜこれほど事故が減ったのかにはいくつかの要因があるでしょう。例えば交通設備の充実。自動車の構造。道路が整備され、信号が設置され、シートベルトが義務化され、衝突安全性能が高まったことなど、ある種の制度的外部要因によって減少したと言えます。

そして忘れてならないのが、他方で「人間は一切変化していない」この点はとても重要な認識だと私は考えています。昭和の人間よりも令和の人間の方が運転が上手なった。そんなことは決してないのです。

昭和を生きた私が感じるのは単純なことです。

「これほど減ったのに、まだ減らす気か?」

日本人は一体どこまで事故が減れば納得するのでしょうか?まさか本気でゼロにすると考えてはいないと思いますが、限りなくゼロにすることをこの国の国民は望んでいるかもしれません。

交通環境を整備し、自動車を改良しここまで減った事故件数をもっと減らすには、もはや人間をどうするかの他、手段は残っていない。そのターゲットにさせられたのが高齢ドライバー。これが私の認識です。

確かに交通事故が減ることは望ましい。しかし、事故が少なくなるほど、残された一件に対して「なぜ事前に防げなかったのか」という問いが強くなる。高齢ドライバーによる事故が起きれば、その問いは「なぜこの人に運転を認めたのか」と、免許制度へ向かう。

その結果、制度は危険を減らすだけでなく、事故が起きたときに判断を説明できることを求められる。検査を厳しくし、一定の年齢や点数によって運転を認めない人を増やせば、事故を防げる可能性はある。一方で、車を失った人が通院や買い物を諦めても、それは交通事故の統計には表れない。見える危険を減らすことが、別の危険を暮らしの中へ移す場合がある。

私たちが心配するのは、安全を求めるあまり、人が自分の困難を話せなくなることである。本人は免許を失うことを恐れて運転の不安を隠し、指導する側は責任を恐れて判定だけに徹する。それでは、安全について率直に話し、改善を試みる機会が失われてしまう。

だからこそ、まず実際に運転して確かめたい。どの場面で難しさが生じるのかを本人と見つめ、練習や車両の工夫、運転する条件の調整によって改善できるかを試す。それでも運転を続けることが難しい場合には、必要な移動を続けられる方法をともに考える。

事故で傷つく人を守ることと、高齢者の暮らしを守ることは、対立させるための目標ではない。危険をゼロにできない現実から目をそらさず、事故の危険にも、移動を失うことにも、社会が責任を持つ。そのような制度を求めたい。

 

 

 

 

2026年09月26日